2023年


ーーー4/4−−−  フィルムカメラ


 
言わずもがなの話に、ちょっとの間お付き合い頂きたい。デジカメやスマホによってもたらされた、写真撮影の様変わりについてである。

 フィルムカメラを知らない、あるいは使ったことが無い世代が、すでにこの国の人口の半分を越えているのではないかと思う。デジカメが普及し始めたのは、2000年代に入ってからだそうだ。2000年と言えば、現在40歳の人が17歳くらいの時である。今では小中学生でもスマホを持ち、写真を撮ったりしているが、昔は高校を卒業するくらいまでは、自分のカメラを持つことなど無かったと思う。であるから、現時点で40歳より若い世代は、フィルムカメラをいじった経験が無いのではないかと思うのである。

 その世代の人に、フィルムカメラの説明をするのは、もはや難しくなってきた感がある。

 フィルムは長い帯状の薄い膜で、パトローネという円筒形の遮光容器に入っている。それをカメラの中にセットする。写真を一コマ写すごとにフィルムを巻き上げる。一本のフィルムで、36枚の写真を記録することができる。撮り終ったら、パトローネの中に巻き戻し、写真屋へ出して現像とプリントを依頼する。白黒写真の場合は、設備を持っていれば自分で現像とプリントを行うことも出来た。私も若かった頃は、自宅でそれをやったものだった。余談だが、大学の工科系の学部は、実験に写真撮影がつきものなので、実験棟などに暗室が設けられていた。学生は自分で現像からプリントまでやるのが普通だった。その暗室に潜り込んで、登山で撮った写真を処理する山岳部員などもいた。

 カラー写真は、自分では現像やプリントができないので、写真屋に出すしかなかった。出してすぐにやってくれることは稀で、たいてい一日二日かかる。撮影した写真を自分の目で見るには、数日を要したのである。また、一本のフィルムを一回で使い切るとは限らない。中途半端で残っているフィルムは、別の機会に続きを撮ることになる。写真屋から戻ったプリントを見たら、いつの事だったか覚えていないような画像が混じっているというようなこともあった。

 ここまで説明をすれば、デジカメ世代の人は驚くのではないか。なんと面倒な手順を踏まなければ、自分が撮った写真を見れなかったのかと。

 私は仕事上のことで写真を撮ることが多い。開業した頃は、フィルムカメラを使っていた。ポジフィルムを使っていたので、写真屋に出しても上がってくるまで一週間ほどかかった。その後デジカメに移行したのだが、様相は一変した。撮ったらすぐにパソコンで画像を見てチェックする。照明の具合とか、構図とかに不備があると、また現場に戻って撮り直す。そういうことを繰り返す。その機動性の高さは、フィルムの時代には考えられなかったことである。しかも、作品の写真を撮る際は、条件を変えて数十カット撮ることもある。それをフィルムでやったら、金額的に大変なことになる。

 またデジタルの画像は、トリミングはもとより、色調やコントラストを、自分の思いのままに調整することができる。画像の中の不要な部分をボカしたり、消去することもできる。フィルムの時代は、カラー画像をいじることなど、町の写真屋あたりでは出来なかったことである。どうしても画像にこだわりがある人は、専門のラボに持ち込んで処理を頼むしか方法が無かったが、そんなラボは限られた大都会にしか存在しなかった。

 まさに隔世の感があるわけだが、デジタルの進化は激しく現在進行形である。私はこれまで数台のデジカメを、壊れる度に買い換えて使って来た。結構壊れやすいのである。そういうところは、昔のカメラの方が良かった。それはともかく、昨年になってスマホを新しくしてからは、デジカメの代わりにスマホで撮るようになった。

 それまで、スマホで写真を撮るなどというのは邪道だと思っていた。カメラ機能は、スマホに付帯したおまけ程度に理解していたのである。それに、スマホは扱いにくい。被写体に向けて構える際に手に馴染まないし、シャッター操作もしっくりこない。そのように好きでもないし、期待もしていなかったスマホのカメラだったが、今般のスマホを使ってみるとあまりに綺麗に撮れるので、なりふり構わず乗り換えたのである。

 カメラというものは、被写体をそのまま写すことが第一と思っていたが、スマホカメラはそれに留まらない。現実よりもっと美しく、感動的に写るよう、勝手に調整をしてくれる。さらに、逆光でも、例えば暗い室内から明るい屋外を撮っても、両方綺麗に写る。なんでも、レンズが4ヶ付いていて、別々に撮影した画像を合成するそうである。肉眼で見れば、室内も屋外もはっきり見えるから、肉眼に近づいたと言えるかもしれない。ともあれ、カメラの宿命とも言える逆光問題も解決してしまったわけだ。

 このように飛躍的な進歩を遂げているデジタルカメラだが、撮影された画像を見るにつけ、あまりに綺麗過ぎて、時として薄気味悪くなる。




ーーー4/11−−−  復活って?


 「きょうは受難日、イエス・キリストが十字架にかけられた日である。そこで、バッハが作曲した受難曲を聴いて、キリストの受難に思いを馳せた。

まずは、マタイ受難曲。約二時間半の大曲である。

今日聴いたのは、ジョン・エリオット・ガードナー指揮、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ演奏のアルバム。この曲では極め付けと言われている、カール・リヒター盤も持っているが、ガードナー盤の方を、私は好んで聴いている。厳格な雰囲気よりも、温かみが感じられる演奏である。そこが気に入っている。

次に、ヨハネ受難曲を聴いた。これもガードナー盤である。紙のジャケットに入った二枚組で、見かけは安っぽいが、演奏は素晴らしい。

いずれもドイツ語だから、何を言っているのは分からない。

聴きなれたマタイの方は、かろうじて曲想に合わせて断片的にシーンを思い浮かべることが出来る。ペテロの否認とか、イエスの最後とか。

しかし、あまり聴いてこなかったヨハネの方は、全くイメージが繋がらない。

物足りなさを感じて、YouTubeで動画を観た。カール・リヒター指揮の演奏である。これは日本語訳が付いているので、進行状況が良く分かる。視聴をして、新鮮な印象というか、今までになかった気付きがあった。これは良い時間を過ごすことが出来た。

ところで、明後日はイースター(復活祭)である。教会の礼拝の中で、聖歌隊として讃美歌を歌う予定だが、さいきんになってなんだ自信が無くなり、不安を覚えている。どうか上手く行きますように、祈ります」

 というような事をブログに書いた。それを目にした、この四月で小学3年生になる孫娘が「復活ってなんのこと?」と母親(私の長女)に聞いたそうな。母親は「じいじがよく知っているみたいだから、こんど聞いてみたら?」と答えたらしい。

 さて、8歳の子供に、何と説明したら良いだろうか・・・




ーーー4/18−−−  チューナーで歌の練習


 コロナが沈静化してきたので、教会の聖歌隊の活動を再開することになった。それに備え、3年ぶりで楽譜を広げ、オルガンの録音に合わせて自宅練習をした。そうしたら、自分でもギョッとするくらい、音が取りずらくなっていた。

 加齢とともに、様々な身体能力が衰えていくが、音楽表現に関しても例外では無い。楽器の演奏は、指が回らなくなったり、テンポが乱れたりする。声楽の方は、まず音程が怪しくなる。

 模範の音源に合わせて歌うのだが、自分の音程がずれているようで気持ちが悪い。そこで、チューナーを使って、声の音程をチェックしてみた。すると、半音近くずれている部分もあり、驚いた。

 私が使っているチューナーは、基準音に対して測定する音が高いと針が右に振れ、低いと反対側に振れる。音程がぴたりと合えば、針は中央に来る。針が動く窓の上には3つのランプがある。音が合えば、中央に来た針の上にある緑色のランプが点灯する。音が合わないと、このランプの左右の赤色のランプが、針が振れた側に点灯する。

 自分の声をチューナーで調べるという経験は、これまでほとんど無かったので、今回時間をかけていろいろ試してみた。すると、正しい音程の声を出すということが、いかに難しいかということに気が付いた。

 まず、正しい音のつもりで声を出しても、緑のランプが点かない。針は左右どちらかのサイドでフラフラと揺れている。声の高さを調整して、針を中央にしようと試みるのだが、これが難しい。例えば、針が左に振れているときは、声が低いのだから、高くしなければならない。しかし、しようとしてもなかなか思うように針が動かない。迂闊に声を高くすると、すぐに右側に振れてしまう。正しい音程の声を出すのがこんなに難しいとは知らなかった。

 また、ようやく正しい音が出たとしても、一定の長さの音(ロングトーン)を維持できず、安定しない。針がしょっちゅう左右に振れるのである。緑のランプを点け続けるのは、至難の技である。さらに厄介なのは、発する言葉で音程が狂う。「ドレミ」を「あいう」と言えば音程がずれる。このように一つ一つの音を正しく出すのも難しいのに、メロディーを歌うとなれば、もうどうしようもない。緑のランプは、実現不可能な目標のような存在である。

 それでも、人間の体というものは、訓練を重ねて行けば、できなかった事ができるようになっていくものだ。何日か練習をするうちに、多少は音が合うシーンも現れてきた。これからも、歌の練習をするときは、チューナーを傍らに置いて、音程を合わせる楽しみ(?)を味わいながら、取り組むことにしよう。




ーーー4/25−−−  ICレコーダー


 先月、70歳になった。古希のお祝いに、子供たちからプレゼントが届いた。ICレコーダーと自転車のヘルメットである。変な取り合わせだが、いずれも私が希望したもの。当初ICレコーダーだけ希望したのだが、最近マウンテンバイクを修理に出してチューンアップしたので、私が乗り回して事故を起こしたら危ないとの指摘があり、それならヘルメットも貰おうという事になった次第。

 さて、ICレコーダーというのは、小型の携帯録音機である。私はそれを、自分の楽器の練習(チャランゴやケーナ)と、聖歌隊の合唱の練習に使おうと考えている。録音するだけなら、スマホでも可能だが、ICレコーダーは録音の仕組みが違い、音質が良いとの評判なので、気にかかっていた。

 品物が届いて使ってみたら、本当に音が良かった。内蔵スピーカーは小さいので、迫力はイマイチだが、ラジカセに接続して再生したら、そこで誰かが弾いているように感じるほど、音は生々しかった。

 スマホのように曲名などの情報を書き込めないのは不便だが、その場限りの練習に使うのなら、これでも問題無い。音質が良いと、微妙なニュアンスの違いが分かるので、演奏の良い点も悪い点も、はっきりと認識できる。これまでの録音機材では、自分の演奏の録音などは聴きたくない代物であったが、このレコーダーなら冷静に、客観的に聴くことができる。練習にはうってつけの装置だと思う。

 ところで、自分の演奏を録音して聴いてみると、いろいろな事に気が付く。演奏のテンポや音の強弱、指の回り具合などに関して、演奏しながら聴いた印象とはだいぶ違う。録音を聴いてはじめて、「ああ他人にはこのように聞えているのだな」と分かるのである。もちろん「これではまずいな」と感じる点が多い。そういう点は、課題としてとらえて改善を試みる。その一方で、自分では満足が行かなかった部分が、録音で聴いてみると、「これでも問題無い」と感じることもある。要するに、演奏をする立場と、聴く立場では、ずいぶん受け止め方が違うということなのである。

 レコーダーを使ってみて、そんな事に気付いたわけだが、こういう簡便な器具が無かった時代、バッハやモーツアルトから近代にいたるまでの時代は、どのようにして自分の演奏を客観的に判断したのだろうか? 現代とは違うやり方で、自己の行為を見定める術を持っていたのだろうか?